続き

専門家も、住まいを求める方も知らない住まいの仕組み、本当の住まいづくりがそこにあった。

  「住まいづくりとは、建物づくりではなく環境づくりである。」

「住まいづくりとは、建物づくりではなく環境づくりである。
君たちは住環境(家庭環境)づくりという
とても重大な仕事をしている事を忘れてはいけないよ。」

私の師匠、冨田辰雄の言葉です。

かずさんの生い立ち

私は、昭和41年に長崎県のとある小さな町で、曽祖父の代から続く床屋の長男として生まれました。
私が生まれた頃、田舎町とはいえ、店は繁盛していたようです。

昭和42年頃
昭和42年頃

あまりの忙しさに、オムツを外す前から保育園通いでした。
そういったところは、今の共働きのご家庭と変わりません。
保育園が休みの日でも、店は営業しています。忙しいので、私はお金を渡され
近くの八百屋に自分が食べる物を一人で買いに行っていたようです。

父はこういう生活は子供たちにとって良くないと一念発起して、
当時月25万円の売上を捨て、トヨタ自動車へ入社しました。
入社当時の給料は片手以下だったそうです。
しかし、父はお金より家族の幸せを選びました。

私が小学校にあがる前のことです。
田舎の家を売ったお金で、豊田市が分譲した住宅を買いました。
建築中の新しい我が家へ、何度も足を運び、母と何やら話す父。
その二人の姿は、幼い私の目にもとても幸せそうにうつりました。

新居完成と突然の別れ

新居が完成し、引越し、転校とあわただしい日々が落ち着き
何とか新しい家に馴染み出した頃、
母が突然入院し、数ヵ月後に亡くなりました。

お葬式が終わり、普段の生活が始まったのですが、父には隔週で夜勤勤めがありました。
三歳の妹と小学一年生の私を置いて勤めに出なければいけないのですから、
父もさぞかし辛かったことと思います。
私にとって、小さな妹と過ごす夜はとても不安で寂しかったことを覚えています。
家族の幸せを求めた新天地での生活が、いきなり辛いものになるとは、
父も思いもしなかったことでしょう。

家庭環境の変化・家族間の信頼関係は大切です

その後、私達兄妹の新たな幸せを求めて、父は再婚するのですが、
私達家族が幸せな毎日を過ごせたと思いますか?
記憶にある限りでは、全然幸せではありませんでした。

朝から、電気をつけなければ、とても暗い食堂で食べる朝食は、
美味しくありませんでした。
楽しいはずの夕食の時間も無言です。
家族同士の信頼感を感じる事もなく、家にいても妙に落ち着かず安心感もありませんでした。

かと言って、暗い少年時代を送っていたかと言うと、そうではありません。
家庭に気持ちが向かなかった分、外に向いていて、学校から帰ると宿題をサッサと済
ませ、外で元気よく遊んでいました。小学校低学年の頃から、「宿題やりなさい!」
と叱られた事はありませんでした。
自分の事は自分でやるクセがついていました。
家庭の中が暗かった分、外で明るく元気良く楽しく過ごしました。
非行に走る事もなかったので、まあ良かったのではないでしょうか。

決して、良い家庭環境とは言えませんでしたが、道を踏み外すことなく育ったのは、
今と違い、家の外で思う存分、遊んでいたからだと思います。
近くの丘を探検し、広場を走り回り、時には自転車で鞍ヶ池まで出かけ、自然の中をかけずり回っていました。

今思えば、あの頃に、住まいの仕組みの重要性がわかっていたなら、
こんな特殊な家庭でも少しはましだったのかもしれません。
父は、私達の幸せを願いました。その気持ちは痛いほど伝わっています。
私も、父が幸せに暮らしてくれる事を願っています。
いつかは、『幸福を生む住まい』に住ませてあげたいと思っています。

そして、私も私の家族と幸せに暮らしたいと思っています。
少年時代、家庭での幸せを、外に求めました。私にとっての家族は、当時の友人達であり自然だったのです。
そして、拠り所は家庭ではなく、夢中になっていた野球でした。

家庭は拠り所で幸せいっぱい

本来、人の拠り所となるべきものは家庭です。
私は、私の子供達にはそうあって欲しいと思っています。
そして、家庭での家族の幸せを充分感じて、成長して欲しいと願っています。

住まいの組みで幸せになる秘訣を知っているのですから、存分に活用し、
もっともっと幸せになりたいと思っています。
あなたの幸せづくりのお手伝いが出来ることが、とっても幸せです。建築士である私の妻もそう思っています。
あなたの人生の大事業として家を建てるのです力ら、
家族が幸せに暮らせる家を建てて下さい。

予算は関係ありません。幸せにお金はかかりません。
金持ちや、高価な家に住んでいる人が幸せとは限りません。
同じお金を使うのなら、家族の幸せにお金を使ってください。
私の切なる願いです。